もし音MAD作者が調音音声学を学んだら【音MAD Advent Calendar 2021】

※本記事は「音MAD Advent Calendar 2021」4日目の記事です。他にも面白い記事が上がる予定なので是非。
adventar.org


こんにちは。ShiMaと申します。チャー研MADをメインに活動しております。

代表作は、「ヒカマニサイコトロピック」「ドーナツに穴があってよかったな~」「ポシャルル/亀井有馬&ユージ」などです。


さて、この3作品のどれにおいても僕は人力VOCALOIDなる技術を用いたわけですが、この記事ではそんな人力VOCALOIDについて検討していきます。
その過程で、これらの作品をどのように作ったかについても適宜紹介していこうと思います。

そして、もう一つの主題について。
アドベントカレンダーの企画に誘われたのでネタを探していたら、「調音音声学」という音MADに応用できそうな学問を見つけました。
なので、まだ知って3ヶ月くらいのにわか知識ではありますが、ここで紹介しようと思います。

※僕は音声学の専門家ではないので、もしかしたら専門的な視点から見たら不正確な表現などあるかもしれません。ご了承ください。

要約

この記事で最も伝えたいことは、「調音音声学を学ぶと音MADの音声に関する諸現象を理論的に説明できるようになるよ」ということです。

はじめに

まず、ここで紹介する知識は、音MADを作るうえで必ず必要になる知識ではありません
僕も音MAD歴11年で初めて知ったような知識です。ご安心ください。

ですが、こうした知識を持っておくことは、表現を豊かにする可能性があります。
具体的には、特に人力VOCALOID方面において、より自然な調教にできる、あるいは限られた素材を最大限有効利用するようになれる、といったメリットはあるように思います。有効利用ができるんだ

参考文献

こちらの本を大いに参照しました。
城田俊(1995)『テキスト版 日本語の音』ひつじ書房
www.amazon.co.jp
斎藤純男(2006)『日本語音声学入門 改訂版』三省堂
www.amazon.co.jp

その他の参考文献は脚注などで表していきます。

調音音声学とは

音声とは、人間が話し言葉において言語情報を伝達するために人体を使って生成する音のことを言います。(略)人類の諸言語で用いられる多種多様な言語音を体系的に分類するための知識体系は「一般音声学」と呼ばれます。一般音声学では、言語音がどのように生成されるかという観点から言語音を分類します。従って「調音音声学」とも呼ばれます。
──講義「音声学入門」(前川喜久雄)/言語学レクチャーシリーズ(試験版)Vol.2 より

そもそも音声学は、言語学の一分野です
我々はふだん単に「音」の意味合いで「音声」を用います(例:音声〆切はいついつまで)が、音声学において「音声」は専門的な意味合いを持ちます。
音声学における音声は、人間が口などを用いて言語として発声する音を指します
そして、その音が口のような音声器官のどのような動きによって発生するか(調音)を研究するのが調音音声学と言えます。

人力VOCALOIDとは

まず、音MADを作らない人、あるいは音MADを知らない人向けに、人力VOCALOIDについてお教えしましょう。

そもそもVOCALOIDは、声優さんの声を合成することによって歌を歌っているように聞こえさせる音声合成ソフトです。
ここで用いられる声優さんの声は、まさに合成されることを目的として収録されており、そのため収録される音声は、考えうるすべての種類の音声をできる限り網羅しようとします。

それに対し人力VOCALOID(以下単に「人力」と表記することもある)は、VOCALOIDがソフトウェアとして自動化している機能を人の手で行うことによって、VOCALOID化されていない人の声で歌わせる技術を指します。
特に音MADの文脈では、合成されることを目的としていない音声、例えばゲーム、アニメ、CMのような鑑賞目的の音声素材を合成して、歌っているように聞こえさせる技術と言えるでしょう。
VOCALOIDソフトで歌わせられる声は高々数百種類しかありませんが、人力VOCALOIDでは理論上任意の人を歌わせることができます。
その一方で現実には、「イ段の音を使いたいのに素材が全くイ段をしゃべってくれない」といった障害が発生することもしばしばあります。

音MAD外での音声合成技術の使われ方

この記事の読者の中には、音MADというより音声学の研究テーマを探してなぜかこの記事にたどり着いてしまった人もいるかもしれません。
音MADは音声学の研究対象になりうると僕は信じていますが、アングラの文化のため大々的に取り上げづらいかと思います。
そこで、音MADの外と人力VOCALOIDはどのような接点があるかについても触れておきましょう。

人力VOCALOID音声合成技術の一つであり、恐らくもっとも原始的なものです。
そして、そうした音声合成技術は、アートなどの文脈で注目を集めています。
以下に、音声合成技術が注目を集めた事例を2つ紹介します。

  • 事例1:タイムズ(The Times)社の広告「JFK unsilenced」。アメリカ第35代大統領であり、1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディが暗殺当日に行うはずだったスピーチを、過去のケネディの音声データを合成することで音声化した。

rothco.ie

  • 事例2:アメリカALS協会(The ALS Association)による「Project Revoice」。筋萎縮性側索硬化症(ALS)により声を失った人の過去の音声データをディープ・ラーニングが学習し、もう一度彼の声によって会話ができるようになるシステム。

www.projectrevoice.org

人力VOCALOIDといえば音MADというのが現状です。
しかし、人力VOCALOIDは単なる技法であり、音MAD以外にも用いることはできます。
したがって、突き詰めさえすればこのような音MAD外への発展可能性もあるかもしれません。

人力VOCALOIDの方法

ところで、人力VOCALOIDを作るには五十音すべての音声素材が揃っている必要がある、と思っている人もいるかもしれませんが、それは誤解です。
確かに揃っていれば楽ではありますが、揃っていなくても人力を行うことができます。
下の図は、自分流の人力VOCALOIDのしかたです。
この図は「タ」のように聞こえる音ですが、まず子音「t」を短めに配置し、その後にそれとフェードインフェードアウトで入れ替わるように長めの母音「a」の音を配置しています。
こうすることによって、「t」と「a」の音さえあれば──例えばそれの元が「ト」と「サ」であったとしても──「タ」の音を錬成することができます。

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自作品における人力の方法

しかし逆に言えば、「t」の音が欠けてしまうと、理論上は「タ」の音は作ることができなくなってしまいます。
ではどうするかというと、例えば「t」の代わりに「d」を用いることがありえます。
理論上はこの音は「ダ」になってしまうわけですが、文脈や音の流れによって、聞いている人は「この音は『タ』だ」と錯覚します。
人力VOCALOIDをするときには、しばしばこのような音の代用をすることがあります。
他にも、次のような代用をしたことがあります。

  • 「ツ」の代わりに「ズ」を用いた。
  • 「マ」の代わりに「バ」を用いた。
  • サ行の子音として、「フ」の音をピッチを上げて用いた。
  • ヤ行の子音として「イ」の音を用いた。


いずれも「ドーナツに穴があってよかったな~」で用いたテクニックです。

そしてこの記事では、このような代用について、調音音声学の知識を用いて理論的に説明することを試みます
今後音を代用したい状況でも、この理論を基に考えれば代用に使うべき音の最適解が発見できるかもしれません。
そこで、これ以降は調音音声学について、音の代用をメイントピックとして学んでいきましょう。

調音音声学の知識

子音

「タ」「チ」「ツ」の子音は違う

五十音表は小学校で習って以来皆さんにとってなじみ深いものかと思います。
母音を表す段(ア段、イ段、……)と子音を表す行(ア行、カ行、……)。このように認識していると思います。

しかし、音声の観点で考えると、同じ行の音でも違って発音していることがあると思います。
例えば、「タ」と「チ」と「ツ」では、同じタ行でも子音の発音のしかたが異なります。
試しに「タ」「チ」「ツ」の子音にアイウエオを付けてみると、「タティトゥテト」「チャチチュチェチョ」「ツァツィツツェツォ」となるでしょう。

試しに発音のしかたによって音節*1を分類すると、次のようになります。
色は子音の種類1つにつき1色が対応しています。

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日本語の音節の分類(城田(1995)を基に作成)。

ここで、「直音節」「開拗音節」「合拗音節」の用語が出てきました。簡単に言えば、開拗音節はイ混じりの音、合拗音節はウ混じりの音*2です。そうでないものは直音節です。
この表で同じ横の行はおおよそ五十音表で「同じ行」とみなされています。
しかし、直音節、開拗音節、合拗音節で、同じ行でも色分けは異なっています。
つまり、直音節、開拗音節、合拗音節で子音の種類は微妙に異なります
その違いは、例えば先程の「チャチチュチェチョ」と「ツァツィツツェツォ」の違いとして顕著に現れます。
またこれが意味しているのは、五十音表の中でイ段だけ子音が少し違うという意外な事実です。

子音の分類(難しいから飛ばしてもいいよ)

外国の人にもこの発音のしかたが分かるように、音声学では発音記号を用いて音を表します。
特に、国際音声記号IPAというものがよく使われます。
一見難しいためここまで封印していましたが、発音記号を開放するとこんな感じです。

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日本語の音節の分類(城田(1995)を基に作成)。発音記号はいろいろな説があるため、城田(1995)や斎藤(2006)などを基に、この記事に適するものを選んで付与しました。

ひとまずこの記事内ではわかりにくい記号は都度解説するのでご安心を。

ここまでは母音と子音を組み合わせた基本的な音節について見てきましたが、子音の発音のしかたをより細かく見ていくこともできます。
ここから専門用語のオンパレードですが、記事を読むうえではそこまでかっちり理解していなくても良いので、適度に読み流してください。

まず、音声は舌や唇などの複雑な動きによって生まれているわけですが、これを説明するためには、口の中の細かい部位を指す言葉が必要です。
「『口腔の天井』のうち、歯茎より奥側だけどやわらかいところよりは手前側の硬い部分」みたいなことをいちいち言っていたら埒があきませんから。

「口腔の天井」は、主に歯茎硬口蓋軟口蓋の3つに分けられます。詳しくは下図を見てください。

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歯茎、硬口蓋、軟口蓋

これで準備は整いました。
子音は、次の4点で分類できます。

  • 調音点:「主にどこを使って発音しているか」を表します。調音器官には、調音の際によく動く積極的調音器官と、その積極的調音器官が働きかける受け身の調音器官があり、その2つによって調音点を表すことができます。下唇や舌は積極的で、上唇や歯茎や口蓋は受身の調音器官です。
  • 調音方法:「どのように発音しているか」を表します。
    • 破裂音:調音器官が気道をしっかりと閉鎖し、その後閉鎖を開放することで発生する音。
    • 摩擦音:調音器官が気道をせばめることで、摩擦により発生する音。
    • 接近音:調音器官が気道を少しせばめることで、その隙間での共鳴により発生する音。
    • 破擦音:破裂音同様の閉鎖ができるが、それを開放するときに摩擦音も発生する音。
    • 鼻音:口腔の調音器官を閉鎖し、鼻の気道で発生する音。
    • 弾き音:調音器官が1回だけ瞬間的に触れることで発生する音。
  • 声の有無:子音の発音の際に、声帯が振動し声が発せられている子音を有声子音、声帯が振動せず声が発せられない子音を無声子音と言います。
  • 硬口蓋化の有無:硬口蓋化(あるいは単に口蓋化)とは、発音の際に舌が硬口蓋に向かって持ち上がることを言います。先の開拗音はまさに口蓋化した音節のことを指していました。つまり簡単に言えば、硬口蓋化するとイの音が混ざります。「ʲ」は口蓋化を意味する発音記号のため、硬口蓋化子音のほとんどについています*3

これらに基づいて分類した結果が次の表のようになります。

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日本語に存在する子音の分類(城田(1995)、斎藤(2006)などを基に筆者が作成)*4

先程の音節の表は、おおよそこの調音点の順に並んでいました。色分けについては、調音点が前から奥に行くにつれて明度を下げ、調音方法や硬口蓋化の有無は色相で表現し、有声/無声は彩度で表現しました。

調音のしかたが似ている子音は、聞こえも似る

以上を踏まえると、上で述べた代用は次のように説明できます。

  • 「ツ」の代わりに「ズ」を用いた。→「ツ」の子音[t͡s]と「ズ」の子音[d͡z]は、同じ非口蓋化歯茎破擦音であり、違いは有声/無声のみです。
  • 「マ」の代わりに「バ」を用いた。→マの子音[m]もバの子音[b]も互いに有声両唇音*5で、違いは調音方法が鼻音か閉鎖音かのみです。調音方法にも互いに似ているものと似ていないものがありますが、唇を閉じるという点で[m]と[b]はやや似ています*6
  • サ行の子音として、「フ」の音をピッチを上げて用いた。→サ行子音[s][ʃʲ]も「フ」の子音[ɸ]も無声摩擦音で、違いは調音点が歯茎か両唇かのみです。


このように、互いに代用できる音は、音声学的に見ても似ている調音をしていることが伺えます

補遺 ~音MADと摩擦音・破擦音~

音声学の知見として上の表を紹介しましたが、そこにはさらっと流してしまったけれども音声学的には重要なトピックがあります。例えば、[ɡ]と[ɣ]と[ŋ]の違い*7、[ʔ]について*8、「ン」について*9などです。ただこれらは音MAD作者に紹介したい話ではないので、その説明は脚注に譲ります。これ以降は、音MAD作者に特に伝えたい内容──摩擦音と破擦音──についてお伝えします。

子音の調音と音MADの間の関係は、人力における代用以外にもあります。例えば、 YTPMVでハイハットに使われる子音は、ほぼすべてが摩擦音か破擦音とです。「サイカヨウw」は代表的ですね。自作のYTPMVでは[ɸ]の音をハイハットに使ったこともあります。「ふっくら」の「ふ」のことです。

ついでに言うと、摩擦音と破擦音は人力をする際には少し強めにかけてあげた方がいいというのが持論です。サ行がサ行に聞こえない人力は結構な頻度で見かけるので。モノマネと同じで、少し特徴を目立たせるくらいがちょうどよい気がします。

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自分流の「シャ」[ʃʲa]の調教*10。サ行の子音[s][ʃ]は、少し長めにとってしっかり聞かせることは常々意識しています。

母音

母音の分類(難しいから飛ばしてもいいよ)

母音については、IPAでは、主に次の3つによって分類されます。

  • 舌の高さ:母音の発音中に舌が高い位置にあるか低い位置にあるか。舌の位置が最も高いものは口の開きが狭いので狭母音と呼ばれ、舌の位置が最も高いものは口の開きが広いので広母音と呼ばれます。特に[i](狭母音)と[a](広母音)を交互に発音すると違いがよく分かります。
  • 舌の前後位置:発音時に舌の最も盛り上がった点が前にあるか後ろにあるか。前にある母音は前舌母音、後ろにある母音は後舌母音と呼ばれます。特に[e](前舌母音)と[o](後舌母音)を交互に発音すると違いがよく分かります。
  • 唇の丸め:舌の位置が同じ母音の中でも、唇が丸まって前に突き出る母音と突き出ない母音があります。突き出る母音は円唇母音、突き出ない母音は非円唇母音と呼ばれます。日本語の5母音で円唇母音は[o]のみ*11

分類した結果が下の図です。2次元的な広がりは舌の位置を示し、白地に黒字は非円唇母音を、黒地に白字は円唇母音を表します。

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母音図

日本語の母音は、細かな違いに目をつむれば、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」の5種類です。日本語の音をこの座標に配置すると、おおよそこの辺です。

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母音図に日本語の音を配置(斎藤, 2006を基に作成)*12

これ以降は、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」の発音記号は、一番近い音である[a][i][ɯ][e][o]と表記します。

「ヤ」は「イア」?

例えば、[i]は、「舌が最も前で最も硬口蓋に近づいて調音される母音である」*13と言われています。発音の際に舌が硬口蓋へと持ち上がることを硬口蓋化と言ったことを思い出しましょう。硬口蓋化するとイの音が混ざるといったのは、まさに[i]の音自体が硬口蓋化している音だからです。

このことを踏まえて、次の代用を考えましょう。

  • ヤ行の子音として「イ」の音を用いた。→ヤ行子音[j]の代わりに[i]を用いたということ。そもそも[j]について、「舌はだいたいイ[i]の位置と同じくらいの位置から次の母音の位置へとはじめゆるやかに、後にはかなりすみやかに渡っていく」(城田, 1995; p. 53)と述べられています。「舌の位置が同じ」ということは、調音点も近いということでしょう。[j]も[i]も有声かつ硬口蓋化した音でもあるため、代用可能性は高い音と考えられるでしょう。


ヤ行子音とワ行子音は半母音とも呼ばれ、半母音は「ある程度以上に持続して発音すると、もはや半母音ではなく母音として認識される」*14と言われています。実際、「ヤ」をゆっくり発音すると「イア」に聞こえると思います*15。「ヤ」と「イア」が近いのは、diamondが「ダイヤモンド」になったことからもうかがえます。

同様に、口蓋化している音、例えば「シャ」[ʃʲa]などは、まず[ʃ]を配置し、次に[i]を短く子音的に配置し、最後に母音[a]を配置することで、[ʃia]を[ʃʲa]として錯覚させることができます。

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自分流の「シャ」[ʃʲa]の調教(再掲)。ここの[ʲ]には、[i]の音を代用しています。
本振りサディスティック

さて、ここで僕が一番好きな人力の代用を紹介しましょう。
www.youtube.com
「本振りサディスティック」の0:27あたり。文脈的には「て」にしか聞こえない音なんですけど、よくよく聞くと「熱血修造キャーンプ!」の「キャ」なんですよね。この代用がなぜ成立しているかを考えてみましょう。もちろん、「ひとつのところにいのちをかけ」までによって敷かれた強烈な文脈が「て」に聞こえさせているということも重要な要因ですが、音声学的な類似がなければ代用は決してできません。
英和辞典で「camp」を調べると、発音記号は[kæmp]と出てきます。つまり、件の音声は[kæ]と書けます*16。[k]と[t]は、非口蓋化無声閉鎖音であることは共通し、調音点のみ違うということで、先述の仮説によれば代用可能性の高い音です。では母音についてはどうでしょうか。[æ]は日本語にはなく英語にある母音で、[a]と[e]の中間、つまり「あ」と「え」の中間の発音と教えられます。つまり、[æ]と[e]は非円唇前舌母音であることは同じで、舌の高低のみが異なります。「きゃ」と「て」という一見全く異なる音ですが、発音のしかたは意外と似ている音と見ることができるのではないでしょうか。

無声化母音

無声子音*17と無声子音に挟まれた狭母音*18は、自然に発音すると無声化する傾向にあります。
例えば、喉に手を当てながら「姿勢」と言ってみてください。姿勢姿勢姿勢姿勢姿勢
「せい」のときは声帯が震えているのに対し、「し」のときは声帯が震えていないでしょう。この「し」の母音[i]は、無声子音[ʃʲ]と[s]に挟まれています。声帯が震えていないということは声が発生していない、つまり無声化しているのです。

この現象が示すのは、人力VOCALOIDをするときには必ずしもすべての音節に母音が必要というわけでもないということです。逆に、無声化すべきところに母音があると不自然に聞こえることもあります

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無声化母音の調教例*19。「いつか」の「つ」は無声化するため、[ɯ]の音は無い方が自然。*20
二重母音

「無い」などは、自然に発音すると「ア」から「イ」へと途切れることなく滑らかにつながっていきます。このように母音が連続するときは、二重母音として発音されることが多いです。IPAでは[nai̯]と、後ろの方の母音に半円弧の記号をつけます。
REAPERの波形で言うと、2つの山にならず1つの山になっているということです。
二重母音となるべきところで母音が途切れたりするとかっこ悪いので、人力をするときには気を付けましょう。

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二重母音の調教例*21。[a]と[i]を長めのフェードで切り替えています。この場合[nai̯]で1音節と見ることができ、[a]は音節のメインの音なのに対し、[i]はサブの音に成り下がります。そのため、[i]も目立たないように音量を抑えたり早めにフェードアウトしたりしています。

最後に

今回調音音声学を学んでみて、これまで「音MADを作るうえでの感覚」として培ってきた部分が言語化される喜びと楽しみを感じました。また、その中には「自分はそこまで考えられていなかったな~」と思うほど深く考察されているものもあって、そういうのを見ると自分の考えも深まっていきました。恐らくそうした音声学と近しい感覚を音MAD作者は知らず知らずのうちに培っているかもしれません。恐らく音MAD作者は普通の人よりも音声学との親和性は高いため、そこから音声学者が生まれてもおかしくはないなあと思いました。僕はもう大学を卒業してしまったので、これから進路を決める学生さんなどはいかがでしょうか。

最後に、今回僕にとっての音声学への入り口となった、慶應義塾大学の川原繁人先生*22YouTubeチャンネルを紹介しておきます。身近なトピックを切り口に言語学を紹介して面白いので、音声学に興味があれば見てみるとよいと思います。
川原繁人の音声学入門(基礎編) - YouTube

PS. アドベントカレンダーの昨日上がった記事も、調音音声学の観点から見るといろいろ面白いですよ~。
immortalt.hatenablog.com
主旋律とスネアが実は破裂音で占められていて、シンバルが摩擦音と破擦音で占められているとか、新たな発見があります。


脚注

*1:純然たる日本語に含まれる音節だけでなく、外来語に含まれる音節も含んでいます。

*2:ただし、この特徴付けはのちに循環論法に導く恐れがあります。本来的にはある一定の口の動きとして定義されることは注意して下さい。正確には「硬口蓋化」した音が開拗音節、「円唇化」した音が合拗音節です。

*3:これについて、城田(1995)は[ʃ][t͡ʃ][d͡ʒ]に対しても硬口蓋化の記号を付けているのに対し、確認したほかのほとんどの文献はこれらに硬口蓋化の記号をつけていません。ただ、一音MAD作者である筆者の所感としては、人力VOCALOIDを作るときには[ʲ]の存在を仮定した方が都合が良くなります。母音の無声化によって抽出された子音[ʃ]に[a]を重ねたところでそれは「サ」であり「シャ」には聞こえないというのが経験則です。本記事の主題は人力VOCALOIDですから、これらに対しても口蓋化の記号[ʲ]を付与します。

*4:IPAの観点から見れば[w]を両唇接近音のセルに分類するのは不正確ですが、[β̞]と同一視して解釈しました。

*5:上唇と下唇を用いる音

*6:子音性──どちらも狭めを持つ──と断音性──どちらも閉鎖を持つ──は共通していますが、共鳴性──ノイズを伴うか否か──と鼻音性──鼻腔で共鳴するか否か──は相反しています。この4つの性質で調音方法の軸をさらに細分化する方法は、以下を参考にしました。参考: Shigeto Kawahara(2005), "Half rhymes in Japanese rap lyrics and knowledge of similarity."http://user.keio.ac.jp/~kawahara/pdf/JEAL16_kawahara.pdf

*7:概ね、語頭のガ行は[ɡ]として、語中のガ行は[ɣ][ŋ]として発音される傾向にあります。[ŋ]は「ン」の音に現れることもあります。若い世代は語中のガ行は[ɣ]として発音し、[ŋ]として発音する傾向は薄れてきているそうです(斎藤, 2006)。

*8:文字化けじゃなくて本当にハテナみたいな記号です。「AA(エーエー)」と発音すると、2度目の「A」の前に一瞬喉が閉じる感覚があるでしょう。この声門閉鎖音を2度目の「エ」の子音とみなします。ア行音節は子音がないことも、声門閉鎖音が子音となることもあります。

*9:「ン」は、[m][n][ŋ]のように、次に続く音と同じ調音点の鼻音で発生されます。語末では、上で扱いませんでしたが、口蓋垂鼻音[ɴ]が発音されます(斎藤, 2006)。

*10:「ポシャルル」01:49

*11:日本語の[ɯ]は少し丸まっていますが、[u]と比べると丸みは少ないです。

*12:わかりづらいですが、ウは[ɯ]が微妙に円唇化しているため薄灰色地に、オは[o]よりもやや円唇化が弱いので濃い灰色になっています。

*13:非円唇前舌狭母音 - Wikipedia

*14:半母音 - Wikipedia

*15:じゃあワ行子音は何で代用できるのか? これは正直よくわからんです。円唇母音であることは確定で、後舌狭母音の[u]かなあ。日本語だと「ウ」が一番近いですかね。

*16:日本語として「キャ」と発音すると[kʲa]ということになりますが、実際に声真似をしてみると、修造さんの発音は日本語というより英語に近い発音であるとわかります。

*17:[p pʲ k kʲ s ʃʲ t͡s t͡ʃʲ t h ɸ ç]のいずれか

*18:日本語では[i][ɯ]

*19:「ポシャルル」00:44

*20:なお、この図は発音記号としては不正確で、IPAでは[it͡sɯ̥ka]と無声化母音の下に丸を付けたりします。

*21:「ドーナツに穴があってよかったな~」00:48

*22:僕が川原先生のことを初めて知ったのが数年前に放送された「フリースタイルダンジョン」という番組でした。今回アドベントカレンダーを書く上でのネタとして当初は「子音の類似度」を検討していたのですが、その際に川原先生のページに行きあたって、「テレビで見た人とこんなところでもう一度出くわすとは」と驚いた記憶があります。